発達障害(ASD)の
二次障害で、
年少〜中3まで11年間
クラスで無言を通し、
友達0だった娘。
あるきっかけで
娘の心理と発達特性を
理解でき、
娘との関わりが変化。
徐々にその効果が表れ、
見事クラス全員の前で
しゃべることに成功!!
娘が自分に自信を持ち、
娘が自分から声かけ、
11年ぶりの友達もできた!
私と妻と娘には、
真の笑顔が生まれた!
そんな、
人生が180度変わった
私と娘の真実のストーリー
こんばんは!ともです☺
今回お伝えするのは、
現在、高校1年生の
長女(ASD)についてです。
第1章冒頭でもチラッと
ご紹介したお話です。
私と妻と娘が「真の笑顔」を
手に入れるまでのお話を
包み隠さずに、
もう少し掘り下げ、
お話ししたいと思います。
親バカも入りますが、
私達の娘は、ASDでも
本当にステキな娘なんです!
今回のお話を聞いていただいたら、
あなたと子供との間の悩みも
絶対に諦めてほしくない!
目の前の子供の言動に傷つき、
混乱し、イライラし、
ストレスMAXだったパパママさんでも、
子供をよく見て理解し、
関係が変わっていくという事実を、
知ってもらいたい!
そんな気持ちで、
この記事を書いています。
これから子供との関係を
良くしていきたいと
思っているパパも、
子供に振り回され
現状に絶望しているママも、
私と娘の
過去のエピソードを知ったら、
自然と希望が溢れてきますよ!
過去にNOTEでも、
折に触れお伝えしてきた
エピソードですが、
私と娘との関係に軸を置いて
ご案内します。
私は、
25年近くヒラ社員で
転職を余儀なくされた
超ダメサラリーマン。
自分のポンコツさに
あきれるばかりですが…、
そのお陰で、子供との関わりで
大事なことに気づけました!!
それではどうぞ!
私達の娘は、
3歳児検診で発達の遅れを指摘され、
広汎性発達障害(ASD)と
診断されました。
当時、寝耳に水という状態でした。
ちょっと遅れがあって
育てにくい子という
認識はありましたが、
育てにくいのは発達障害(ASD)の
特性によるものだということを
初めて理解しました。
今からおよそ13年も前のことで、
まだ、今ほど発達障害は周知されず、
私も初めて聞いた言葉でした。
色々、本を読んだり
ネットで調べたりして、
発達障害が何かを調べましたが、
脳の特性によるものなので、
一生治ることはない
と知ったときの
計り知れないショック!!
周りの理解も乏しく、
実家の親達も「知恵遅れ」
ぐらいに思っている程度。
健常児の従兄弟と比較され、
嫌な思いもたくさんしました。
取得した療育手帳は「B2」。
娘の特性は色々ありました。
知的な遅れ、運動能力の遅れ、
味覚過敏、触覚過敏、聴覚過敏、
癇癪(かんしゃく)、などなど…。
特性がてんこ盛り。
いちばん悩んだのは癇癪でした。
突発的にあげる奇声、
どこにあるか予想もつかない
癇癪の起爆スイッチ、
ストップせざるを得ない家事、
お隣への気遣い…。
私も妻も、育て方のどこが
いけないんだろうと悩む日々。
誰にも相談できない閉塞感。
徐々に追い詰められていく焦燥感。
娘が3歳になったとき、
弟(長男)が生まれました。
2人目は正直、迷いました。
娘の子育てで
精いっぱいだったからです。
私達夫婦は、
真剣に話し合い、
生むことにしました。
親以外の身内の存在は、
娘の心の成長にプラスだと
考えたことも、理由の1つです。
もちろん、
2人目の子に娘の人生の責任を
負わせる気はありませんが、
どうしても娘ファーストに
ならざるを得ませんでした。
生まれた息子は、定型発達でした。
理解力、運動能力、こうも違うものだと、
定型発達児の発達障害児との違いを
まざまざと見せつけられました。
発達障害児育児の過酷さを
再認識しました。
定型発達の息子は聡明で、
1を教えたら2~3のことまで
吸収してしまうことに驚きました。
息子の成長は喜ばしいものでした。
でも、同時に思いました。
これが健常児なのか…。
どうしてここまでの
差がつくんだろう。
なんて不公平なんだろう。
なんて残酷!!
娘が3、4歳になった頃で、
発達年齢は2歳ほど。
ケンカは絶えませんでしたが、
ケンカしながらも弟は優しく、
最終的に折れる心遣いがありました。
聡明な弟なりに、
姉を気遣っているのかも
しれないなと思いました。
仲が良いときも多く、
娘の心の発達に確実に良い影響を
及ぼしていました。
娘が保育園に入園しました。
娘のことを気にかけてくれる
友達ができました
(姉貴みたいな感じでしたが)。
特性は変わらないものの、
このままゆっくりでも
順調に成長すると思いました。
しかし…。
娘が保育園のクラスで
急にしゃべれなく
なってしまったのです!
どうしてなのか
理由はわかりませんでした。
きっかけはありました。
クラスの子に「変な声」と
言われたことです。
当時の娘は、
周りの子よりも
1オクターブ高い発声。
私も妻も気にして
なかったんですが…。
自分が周りの子より劣ることが
自分でわかるようになってきて、
尻込みしてしまう、
二次障害だった可能性が
高いです。
特定の場で声を発することが
できない症状。
場面緘黙(ばめんかんもく)
という言葉を
そのとき知りました。
娘の場合、主に学校のクラスなど、
同年代の子達のいる場で
声を出せませんでした。
家にいると普通なのに、
外では緊張して表情がこわばり、
動きもぎこちなく、
死んだ魚のような目に
なってしまう…。
どうして娘にばっかり
色々問題が起きるんだろう。
娘を上手に説得したら
治ってくれる?
保育士の先生や友達の協力で
しゃべれるようになる?
時間が解決してくれる?
最初は、私も妻も、
一時的なものと
楽観視していました。
年中に進級しました。
やはりしゃべれませんでした。
先生方も、
色々頑張ってくれました。
唯一の救いだったのは、
娘の人間関係が悪化することが
なかったことです。
他害をしない子だったので、
周りの子に迷惑をかけることは
ないのは変わらず。
しゃべれなくても
友達との関係は続きました。
しかし…。
タイミング悪く、
年中になって1か月後に
引っ越したのです。
当時、アパート住まいで、
2人目も生まれて手狭になり、
引っ越すのは決定事項でした。
それが、娘の保育園入園後に
ずれ込んでしまったのです。
遠方への転居でしたので、
保育園の転園は免れません。
先生方やクラスの子達とは
お別れでした。
娘を気にかけてくれた
友達ともお別れ。
たぶんもう
会うことはない友達。
娘には申し訳なかったです。
引っ越し後、
近くの幼稚園に転園しました。
新しい環境になって、
娘がしゃべりだすことを
ちょっと期待しましたが、
甘い考えでした。
新しい先生方には、
娘の特性をしっかり伝え、
あわよくばしゃべって
くれるようになれば…、
とも願いましたが、
そううまくいく
はずはありません。
娘のことを
気にかけてくれる友達も、
もういません。
ひとりぼっち。
意思疎通が困難だから、
こうなるのは必然ですよね。
先生方は一生懸命に
やってくださいましたが、
結局、卒園まで
しゃべることは
できませんでした。
小学校に入学しました。
環境が変わるタイミング。
場面緘黙を克服する
チャンスです。
娘も娘なりに心身は
発達しています。
私達は、ここが
声を出せるようになる
最後の正念場と考えました。
ここを逃すともう後がない!
小・中一貫校なので、
ここを逃すと中学卒業まで
環境を変えようがない!!
娘も、今が正念場と
わかってたみたいです。
入学式で生徒が順番に
名前を呼ばれ、
娘の番になりました。
「〇〇(娘の名)さん」
「はい。」
何と!
娘は返事をしました!!
娘はついに
場面緘黙を克服した?
しゃべれるようになった?
娘にとってすごく
勇気ある行動でした。
しかし…。
まだ目の前の大きな山を
乗り越えるだけの気力、体力は
なかったみたいでした。
結局、声を出せたのは
入学式の返事のみ。
クラスでは依然として
しゃべれないまま、
小学校生活が始まりました。
ここで、
私についての話に移ります。
私自身が、
娘とどう関わって
「子供の心理の理解」
「発達特性の理解」
に至ったのか…。
話は前後します。
私は、第二次ベビーブームの
時期に生まれました。
団塊ジュニアと言われる世代です。
また、昨今問題視されている
就職氷河期世代にも該当します。
とにかく同世代が多く、
同級生もあぶれるほど。
中学校は途中で分離したほどの
マンモス校でした。
1クラス約48人、
15クラスあり(!)、
多すぎて教室が足りない。
プレハブを急遽設置して、
暑いプレハブ内での授業も
余儀なくされました。
高校受験、
大学受験での激しい競争、
バブルが弾け就職氷河期。
それでも何とか金融機関
(銀行系)に入りました。
その勤務先を選んだのは、
うちが母子家庭で
裕福じゃなかったから。
バリバリ仕事して
出世してたくさん稼ぐぞ💪と
希望に燃えていました🔥
営業職でした。
まだ景気が悪いといっても
本格的な不景気になる直前。
かすかにバブルの残り香の
あった時期でした。
同期入社は過去最多!!
入った瞬間から
熾烈(しれつ)な出世競争でした。
でも翌年以降、採用を絞り始め、
入ってくる人材は3分の1に激減。
しかも新しい後輩は次々と退職。
なので配属支店では
常に下っ端の雑用係
(ずっとトイレ掃除担当😂)。
上のポストは徐々に狭き門に。
人事部は、苦肉の策で
新しい役職を作りました。
実質、管理職までの階段を2段、
増やされただけ。
しかも私達より下の世代では
その役職は廃止となる不公平さ。
つまり2年以上
留年したのと一緒。
名ばかりの役職名がついても、
実質ヒラ社員。
管理職の椅子取りゲームは
負け続きという状況でした。
金融機関自体の経営が良好でなく、
徐々に給与削減、
ボーナスカットの連発。
ひどいときは、
給与は毎月5万円カット、
ボーナス支給0円!
これまで誰にも言ってなくて、
言っても信じて
もらえないと思いますが、
当時、アラサーにも関わらず
手取り15万円(未満もあり)!
年収200万円台!!
(正社員なのにです)
でも残業はバンバン
21時までの世界。
収入ダウンしても変わらず
取引先顧客からの購買圧力で
買わされる超高額スーツ。
自宅通勤にも関わらず、
普通に生活するだけで
減っていく預貯金。
住宅ローンのボーナス払いが
できない先輩。
救済策のため無利子で始まった
職員貸付に殺到する上司。
プライベートでは、
友人と出かける余裕もない。
デートできる身分じゃない。
私含め、多くの同僚は、
生活基盤を作る体力なく、
婚期も遅れていきました。
このときは本当に嵐のような時期で、
上司~同期~後輩、
辞めまくっていきました。
当然、残された者にしわ寄せ。
更に過酷となる業務。
悪循環。
仲の良い同期とは、
経営状況の不満や
職場のグチを言い合って、
お互い結婚し、生活基盤が確立し、
幸せな家庭を築くことを
夢見ていました。
そんな中で、
やっとこさ妻と知り合って
結婚しました。
しばらくして無事
長女を授かりました。
ささやかながらも
幸せな日々。
でもここからが
悪夢でした。
職場では、
勤務する金融機関が
“吸収合併”される
ことになりました。
家庭では、
娘が“広汎性発達障害”
であることが
判明しました。
絶望の連続!!
どうしよう!?
娘の発達障害というものが、
前述の通りよく
わかりませんでしたが、
勤務先の合併が、
将来の深刻な懸念であることは
明白でした。
これまで勤めていた金融機関が、
規模の大きい銀行に吸収されて
消滅してしまうのです。
幸い職員の雇用は
維持されることになりました。
でもそれはいばらの道。
合併した先で
生き残っていけるのか?
悲惨な未来しか想像ができない。
仲の良い同期とは
いろいろ意見を交わしました。
情報収集もしました。
結局、転職を決意しました。
転職活動が始まりました。
転職活動は中途半端じゃなく、
妻と相談して決意して
本気で臨みました。
当時、配属支店は
感じの良い同僚達が
多かったんですが、
支店長によるパワハラを
受けていました。
これも転職に傾いていた
理由の一つです。
平日は本業の力を抜くことなく、
休日は転職活動に注力しました。
転職サイト数社に登録し、
近隣の募集ある中堅企業に
片っ端から応募しました。
書いた履歴書の枚数は
覚えていませんが、
100社強に応募しました。
休日はほぼ転職活動で、
スーツを着て会社訪問しました。
何度か県外にも出向きました。
何社か最終面接までこぎ着け、
1年近くかかって、
1社で内定を取り付けました。
ITシステム会社のルート営業職でした。
採用担当の方がすごく好感が持て、
その会社への入社を決めました。
パワハラ支店長に
辞めることを伝えました。
妻は一旦は転職に
賛成したんですが、
戸惑っていました。
当然です。
当時、幼い発達障害の娘を抱え、
自分は専業主婦。
稼ぐ手段は私の仕事のみ。
当時、働き盛りの時期。
終身雇用も今よりまだ
浸透している時代
だったと思います。
転職に対する抵抗感は
相当大きいものでした。
義父にも転職を止められました。
銀行側にも引き止められました。
銀行側は、このタイミングで
辞められると困るからでしたが…。
すごく悩みました。
ハッキリ言って
転職した先が厳しい
だろうというのは事実。
でも続投だとその先の見通しが
もっと厳しいのも事実。
結局、もっと厳しい道を
進むことにしました。
退職意向を取り下げて、
転職せず、
合併後も継続して
働くという選択です。
ほどなく、勤務先は合併。
これまで務めた
金融機関の看板は撤去。
合併先の銀行の看板が
取り付けられました。
このときの心境は、
一生忘れることは
ないでしょう。
負けた気分でした!
合併前後は大変でした。
毎日22時近くまで
業務に追われました。
合併前は
連絡の取れない顧客の捜索と
解約などの事務手続きに終始。
顧客からは文句の山。
法人取引先は取引解消もザラ。
後ろ向きな業務。
合併後は
顧客の取引変更の
事務手続きに終始しました。
この時期は毎日
疲れ果てていました。
落ちつくまでに
数年の期間を要しました。
新しい銀行の全く違う事務処理、
パソコンシステム、
業務オペレーション、企業風土。
経験ないけど、たぶん
西洋列強に占領された
植民地の国民のような気分。
合併先の銀行での役職ランクは
1段階下がり、
一回り年下(12歳下)の
同僚と同じ待遇に
なりました。
何度か人事制度の見直しがあり、
更に環境は厳しくなっていきました。
合併となった新しい銀行では、
良い時期もありましたが、
辛く厳しい時期の方が多かったです。
合併前の金融機関の
支店長だった人達は、
閑職や厳しい状況に
追いやられ、次々と退職。
かつての同僚女子も気づいたら
ほとんど辞めていました。
私は、残留している同僚と
励まし合いながら、
頑張りました。
落ちたら給与が毎月5万確実に減る
生死を分けた昇進試験に
合格しました。
受かったら管理職になれる
権利を得られる昇進試験も
合格しました。
両方とも、
本当に死ぬ気で試験勉強を
頑張りました。
持ってて損はない資格の取得試験
(FP2級、証券外務員、財務ほか)
は、片っ端から受験し、
合格を重ねました。
(昇進の可能性が
いちばん高かったときは)
支店の誰よりも早く出勤しました。
でも全く出世しませんでした。
試験は合格して、
要件は整っているのに。
同じ時期の試験合格者は
次々と昇進しているのに。
合格後5年経っても、
ヒラ社員のままでした。
ヒラ社員残留組は全て、
同じ金融機関の出身者。
次第に、年下の同僚が
出世していくのを見送ることが
多くなり、
年下の上司に仕えることが
多くなり、
年を重ねるほど
周りの目も冷ややかに
なってきました。
また、色々な上司から
パワハラを受けました。
特にひどい時期は
支店長に毎日パワハラを受け、
皆のいる中で罵倒されたり、
自分の担当顧客が近くに
いるのに叱責されたり…。
元々、ノー天気で楽天的な私も
徐々にメンタルがやられ…、
毎朝、駅から支店までの道中、
橋の真ん中に立ち止まり、
橋から飛び降りて
消滅したい衝動に
何度か駆られました。
そのたび家族の笑い顔が
ブレーキになって
くれました。
こんな半分綱渡りのような
感じの毎日でしたので、
自分の仕事のことで精いっぱい。
家庭のことを顧みる余裕が
ありませんでした。
妻は専業主婦。
私がつまずいたら、
家族全員が路頭に迷います。
パワハラごときで四の五の
言ってる場合じゃないです!
雑音と思ってスルーして、
とにかく上を目指すしかない!!
職場でうまく立ち回り、
安定した給料を
新しい職場でももらい続けること。
これが私に課された
至上命題と思っていました。
休日は、検定資格や昇進資格を
取得のための試験勉強で
つぶれることが多かったです。
合併前後は休日出勤が多かったです。
たまに休日に顧客と
会うこともありました。
試験勉強は家だと能率が悪いので、
近隣の図書館や喫茶店に
通いつめました。
びっしり書きつぶした業務ノート、
昇進試験ノート、
資格試験ノートは20冊近くに。
この厳しい世界で
生き残るため
自分なりに必死でした。
現実逃避で趣味にも走りました
(音楽鑑賞と読書、ドライブ)。
でも妻の思いは
違いました。
いつも夫が履歴書を書いたり、
試験勉強することに夢中で、
一向に家庭に目を向けてくれない。
ほぼワンオペ子育て。
たまに都合の良いとき娘をあやして、
ドライブがてら公園に連れ出すだけ。
娘が今日何をしてどうなったのか。
娘が今日何ができたのか。
娘がどう感じたのか。
話してもボーっとしてて
うわの空。
息子が生まれても、
夫が足並みを揃えてくれる
ことはなかった。
目が外に向いて
しまっている。
ある日のこと。
その日、
娘の運動会がありました。
休日の開催なので、
私は朝から見に行く
約束をしていました。
でも、前日までの夜なべが響き、
完全に寝坊してしまい、
妻や子供達は既に出かけた後。
急いで運動会の
会場に駆けつけました。
娘の出番の徒競走は
終わっていました。
完全に見逃しました。
痛恨でした。
妻は、急いで駆けつけた
私の顔を見るなり
叱りました。
「あなたは一体どういう
つもりなの?」
「娘が今日のために練習して
一生懸命にやってるんだよ」
「どうしてちゃんと起きて
見に来れないの?」
「夕べにやってたことは
そんな大事なことなの?」
「あなたはいつまで
そんな調子なの?」
「そんなに仕事が
大事なの?」
私は返す言葉も
ありませんでした。
娘のことは自分なりに
大事にしているつもりでした。
でもそれは自分本位で、
自分の都合良いときに
顔を出して、
自分が都合悪くなったら
仕事云々で逃げる。
寝不足なら前日に早く
寝ればよいだけのこと。
やらなければいけないことは
前日中じゃないとできないこと
じゃないはず。
それができず夜更かし
してしまったのは、
娘のこと、家族のことを
ないがしろにしている
ことになるのです。
まったく妻の言う通りでした。
娘がクラスでしゃべれなくなって、
どんなことを考えながら
通学しているのか。
娘がどんな気持ちで
毎日を送っているのか。
仕事も大事だけど、
何のための仕事なのか?
家族の笑顔を得るための
一手段に過ぎないのです。
もちろん、やりがいのある
仕事ができたときの
達成感も大事です。
でもうちは
発達障害の娘を
抱えているのです!
学校で一言も話せず
無言を貫いている子
なのです。
もちろん親は
自分の人生を歩んじゃダメ
という訳ではないですが…。
それでも、妻と私が協力し合って
娘を育て上げないといけない。
このとき、娘のため、家族のため
「変わらなければいけない!」
と心の底から思いました。
でも現実は甘くありませんでした。
小学校の6年間ずっとしゃべれず、
意思疎通は、筆談、代弁、
ヒソヒソ耳元で小声。
クラスで発表の場などは、
クラスメイトに代弁で
サポートしてもらいました。
保育園のときのような
気にかけてくれる
友達もいない。
おしゃべりしながら
一緒に教室に入る子も
いない。
休み時間は
“ぼっち”で過ごす毎日。
教室の片隅で、
暇つぶしにノートに
絵を描いたり、
誰もいない図書室に寄って
本を読んで時間をつぶしたり、
グラウンドの片隅で
ボーっと座って、
一人だけで過ごしたり…。
休日は学校の子がいるかもしれない施設に
極力行きたくないとも
言ってました。
幸い、優しい子達に恵まれ、
いじめを受けずに
やってこれました。
私も妻も悩み、
先生の協力も仰ぎながら
娘と向き合い、
娘と対話しながら
克服を目指しました。
妻が教室まで
同伴したこともあります。
テープに声を吹き込んで
娘の肉声をクラス全員の前で
再生したこともあります。
いろいろ試しました。
結果、どれも
空ぶりでした。
一方で、私の仕事の方は…。
こちらも何をやっても
空ぶりでした。
転勤を重ねながら、
新任地で一生懸命に
実績をあげようと
泥臭く営業して回る日々。
昇進試験も受かっていて、
管理職になれる要件は
すでに揃っている。
それなのに私の方は、
相変わらず
ヒラ社員のまま!
合併前の勤め先も含め、
足かけ20年以上も
勤めてです!!
同期もすでに7割は管理職に。
合併後も加味したら、
同期の95%は管理職だったかも。
私は成績は残した方だと
思うのですが、
アピール不足、
チャンスを見る目のなさから、
上司が望む動きができず…、
受け答えの悪さ、
立ち回りの悪さから
上司受けは芳しくなく…、
逆に齢を重ねるだけ
不利になっていく悪循環。
周りは年下の上司ばかり。
同期は順調に出世。
私がなりたくてもなれない
管理職の「支店長代理」どころか、
その上のポスト「次長」に、
そして「支店長」になる者も
出始めました。
最初の金融機関入社以来、
仲の良い同期が
2人いました。
うち1人は支店長代理になって、
一時期閑職に追いやられながらも
頑張っていました。
もう1人は私同様に
ヒラ社員のまま、
苦渋をなめている状況でした。
徐々に周りの私を見る目が
厳しくなってきていました。
ヒラ社員として一回り以上
年長だった私はいつしか
「浮いた存在」となっていて、
ヒラ社員同士で
ワイワイやっていても、
その輪の中には加われない。
かといって
同年代は管理職しかいないので、
その会話の輪の中に入ることもない。
腫れ物扱いの対応を
されることもザラに
なってきました。
全く畑違いの職務担当になった際は、
同じ職務の20歳ほど年下の同僚に
一から教わり、必死にメモを取り、
ちょっとイレギュラーな
ことがあれば、
右往左往していました。
このときの私の成績評価は、
5段階評価で最低ランクの
「1」になってしまいました。
理由は、年相応の期待値に
沿った働きじゃなかったこと
(畑違いの業務に
年相応とか関係ないのに…)、
あと、案件処理に
1ヶ月の期限オーバーが
あったことから
(これがひどい話で、その案件は前任者が放置した案件。
期限の前日にその案件を任され、不慣れな畑違いの案件処理に悪戦苦闘した結果です。
ちなみに前任者おとがめなし。
すみません、吐き出しました💦)。
後にも先にも、
この評価のショックは
忘れられません。
出世の階段の1段が
なんと高いことか…!!
次に赴任した支店で、
支店長にこの評価は驚かれました
(それだけ稀な低評価です)。
立地環境でも、
片道120~130キロの電車通勤したり、
単身赴任になったり、
いろいろ経験しました。
徐々に自分が
すり減っていくような
気持ちでした。
我が子ファーストの
考え方に変わっても
変わらない厳しい現実。
娘の特性はなくならない。
仕事はにっちもさっちも
いかない。
恐れていたことが
真実味を帯びてきました。
恐れていたこと。
それは
55歳までに
管理職に
なれないこと。
娘が小学校5年生の頃、
私が47歳の頃のことです。
当時47歳の私は考えました。
自分を客観視して、
あと3年、50歳までに
管理職になれるのか…?
というのも、
その銀行は、
55歳になったときに、
諸手当カットで
給与が実質半分に
減ることを
聞いていたから。
50歳までに
管理職になれないと…、
その先の昇進は
ないでしょう。
55歳までに
管理職になれば…、
たとえ年収が半減でも
一家4人、何とか
生活できるレベル。
ヒラ社員のままだと
完全にアウト!!
借金漬け生活に
陥る恐れが。
私が55歳になったとき、
娘は19歳、息子は16歳。
まだまだお金が必要!
住宅ローンも
60歳まで残っている。
だからとにかく
出世がしたい!!
見栄のためではない。
ヒラのまま年収が半分になったら
生きていけない。
肩書が欲しい!!
私達一家4人が
生きていくため!!
もうすでに、ヒラ社員のまま
足かけ24年が経とうと
していました。
毎日、気持ちを
冷静にして考えました。
「今(当時)47歳の自分が、
今(当時)の上司の下で、
どういう成果を出したら、
50歳になるまであと3年で
管理職になれるのか?」
「その成果を出す
可能性はあるのか?」
「あったとして、最低評価『1』
も取っていた状況で、
評価がくつがえるのか?」
今のポジションで獅子奮迅の
活躍をしても管理職には
なれないでしょう。
ちなみに、当時の上司も
パワハラをする上司でした…。
絶対逆転は不可能!!
だから50歳までに管理職に
なるのはおそらくムリ…!
47歳の自分は、
大きな挫折感を
味わいました。
そして…、
私は2度目の転職を
決意しました。
47歳。辛うじて40代。
まだ間に合うかもしれない!?
実力のなさ、間の悪さに、
つい自嘲的に嗤ってしまう
ような境遇でした。
限られたチャンスを
モノにできなかったお前が悪いと
言われればそれまでですが、
その限られたチャンスの場を
もうちょっと欲しかったです。
自分が無能なことは
充分わかっていますが、
環境が無能ぶりに
拍車をかけていた気がします。
10歳も年下の上司に
ブチ切れられたときの
屈辱感といったら!
自信は喪失。
自己肯定感は下がりまくり。
下を向き、卑屈な毎日。
私は、このように、
同世代間の競争に敗れ
ドロップアウトしました。
下からきた世代にすら
ポジションを奪われ、
責任あるポジションに
つくこともなく、
最後まで無用の長物のまま
終わってしまうのです。
そうこうして、2度目の
厳しい転職活動の成功を
心に誓った矢先のことです。
第2章でお話した
「子供の心理の理解」、
「発達特性の理解」、
まさにこれらを理解できるに
至ったできごとがありました。
ある日のことです。
娘の授業参観に妻と
参列していました。
私は大柄で目立つので
「来てほしくない」と
しきりに言う娘でしたが、
せっかくの
休日に開催だし、
スルーしたくない。
教室の後ろの片隅で
コソっと参観していました。
娘はそれでもすかさず
私を見つけました。
心なし、表情が
明るくなったようでした。
なんだかんだ言って、
やはり嬉しい様子です。
先生の出題に、生徒達が
「はい」と元気よく
挙手していました。
娘も挙手していました。
しゃべれないのに挙手は
ちゃんとしていました。えらい!
クラスの子供達の元気な姿を見て、
当時、ふさぎ込みだった私も
元気をもらえました。
授業風景を見ながら、
私は何気なく考えていました。
子供達はいいな、
こんな私のような思いを
しなくて済んで。
でも娘は違うな。
発達障害でずっとしゃべれず
クラスで浮いた存在。
私も仕事では
年寄りのヒラ社員として
職場で浮いた存在。
私と娘は一緒だな…。
そう考えた瞬間、
私の心の中に
電流が走りました。
娘の抱えている問題と、
私の抱えている問題は、
表面的には違っても
本質的には同じ
なんじゃないか?
娘も私も同じく
味わっている
「疎外感」!!
学校でできないことが
劣等感となって、
しゃべれずにいることで
味わう「疎外感」。
職場で出世していないこと
が劣等感となって、
将来に対する望み薄な現状で
味わう「疎外感」。
当時の私は、ざっくりかも
しれないですが、
きっと当時の娘の心理が
理解できたんだと思います。
娘本人もおそらく、
今の自分に全然
満足していない。
意思疎通できないもどかしさを
常に痛感している
状況なんだろう。
自由にしゃべれるようになって
皆と楽しくワイワイ騒ぎたい。
でも自分の殻(特性)を
打ち破るような
キッカケとパワーが足りない!
この授業参観に
参加した日は、
娘の心理、発達特性を
唐突ですがはっきり
理解できた日でした。
ほどなくして娘は
小学校をしゃべれず卒業し、
中学校に入学しました。
小学校からのエスカレーターで
生徒は不動。
当然のようにしゃべれないまま、
中学校生活も始まりました。
第1章でお伝えしたように、
“どれだけ良い先生・
学校・療育”の
環境にいても
子供の気になる行動は
なくならない。
私の娘も、
保育園~(転園して)幼稚園
~小学校
本当に良い先生方に恵まれ、
療育施設の先生方も、
ほぼ、良い先生方でした。
しかし、娘の場面緘黙(特性)
はなくならないです。
中学生になった娘に
ちょっと期待しましたが、
まだ変われません。
でも私は娘を変える気
マンマンでした。
中学からは、
娘の勉強を重点的に
見るようになりました。
娘の発達特性のうち、
場面緘黙はまだ
克服できなくても、
軽度知的障害の方を
何とか改善していきたい。
別角度から娘に
自信を植えつけたい!!
当時の私は、また1年かけた
2度目の転職活動が実を結び、
今度こそ転職しました。
これまでと畑違いですが
自動車部品製造会社に入社。
新しい自分に生まれ変わった
つもりで頑張り始めた
ばかりの時期。
最初が肝心。
気合い入れていきたい。
ちょうどまさに娘も
中学に入学したばかり。
私と一緒。
フレッシュなスタート地点。
生徒は変わらずとも、
学校は変わったので、これをキッカケに
娘を変えていけるかもしれない!
でもまだ娘の試行錯誤の
日々は続きました。
私の教え方がヘタクソすぎて、
娘が私から教わることを
拒否するようになったのです。
特に苦手な数学や
英語は顕著で、
暗記系の社会や理科はまだ
辛うじて教わることに抵抗を
覚えなかったみたいです。
暗記系なので、
最初に勉強のやり方の
コツを教えて、
その後は私が教えなくても
自習で十分対応できるように
なりました。
とはいえ、中学校の
定期テスト、実力テストでの点数は
芳しいものではなかったです。
でも娘の心身は
成長し、
発達特性が徐々に
後退しているのは
確実でした。
何とかして
しゃべれるようになりたい。
そんな娘の心の葛藤は
痛いほど伝わりました。
2年経ち、最終学年の
中3になりました。
中3時のクラス担任の先生は
ベテランの素敵な先生でした。
先生は娘のそんな葛藤を
見逃しませんでした。
娘がすぐにでもしゃべれるよう
働きかけてくれました。
そしてついに、
「その日」はやってきました。
娘が中3になった
秋ごろの話です。
11年ほぼ無言を貫いた娘が、
小声ながらもついに
しゃべりました!!
しかも全員の前で!!
しゃべったのは
委員決め連絡事項です。
クラスの皆、娘の声を聞いて
喜んだらしいです。
先生より電話が報告ありました。
そう仕向けてくれた先生、
協力してくれた
クラスメイト達に感謝です!
私や妻が、高校に入った後の
未来の姿を娘にイメージして
もらうよう終始働きかけたこと、
高校進学を控えて、
娘自身の意識が
本当に変わったこと、
娘の葛藤を見聞きしている
ベテランの担任の先生がうまく
娘をリードとしてくれたこと、
すべての要素が
うまく絡み合ってくれた
結果だと思います。
その後の快進撃!
とどまるところを知りません。
発表の場での発声のトーンも
徐々に大きくなり、
最後尾まで聞こえる声に。
またあるときは、
娘が下級生に“普通に”しゃべってる姿も、
先生に動画に収めてもらいました。
そんな成功と呼応するように
テストの点も伸びてきました。
何とか本命校の志望ランクを
維持できるようになりました。
娘が本命の高校を受験した日。
試験開始前には、
何と!
前の席の子に「頑張ろうね」と
“自分から”声掛けし、
仲良くなったらしい!
娘は言いました。
「私、コミュ力あるかも?」
めちゃめちゃ前向きに
なってくれました!
中学校卒業式のリハーサル。
卒業証書授与の際に、
娘が名前を呼ばれ「はい」と
しっかり返事したのを聞いた、
かつて中1〜2の
クラスメイト達は
ざわついたらしいです。
「声を聞けてうれしい」
「よかった…!」との
声もありました。
そしてついに、
中学校卒業式。
私も、しゃべれなかった娘が
自力でしゃべれる後押しをしてくれた
先生にお会いでき、
感謝の気持ちを伝えられました。
卒業証書授与では
娘の番になったら、娘は
「はい」と、
はっきり返事しました!!
しっかりとこの両耳で
聞きました!
最後のクラス懇談会も、
生徒達が皆に贈る言葉を
順に話す場があり、
娘のスピーチも近いところで
しっかり聞きました。
黒板の前に立ち、
クラス全員と保護者達のいる前で、
ちょっと緊張しながらも
(ほぼ全員、緊張してました)、
代弁者なしで“しっかりと”
スピーチしました!!
高校合格発表。
娘の受験した本命校は、
お陰様で合格でした。
そして何と!
合格発表掲示板から
パッと走り出し、
どうしたと思えば、
受験日に声かけした子を速攻見つけ、
その子も合格らしく、
“速攻その場で”
LINE交換してました!!
娘は中学まで身内以外
LINE登録0。
受験時“娘が自分から”
声かけした子が
LINE登録第1号!!
そのときは名前も聞いてないけど、
友達になったらいいなと思ってて、
夢みたいでした。
娘がどれほど
友達を渇望
していたことか!
合格とダブルで
めでたかったです。
高校入学式。
娘が受験で声掛けして、
合格発表時に速攻LINE交換した子、
同じクラスでした!!
娘の入学式には、
私も時間を作って参加しました。
担任の先生等交えた
個別面談もしました。
場面緘黙はもう大丈夫。
克服できた!!
娘はイチから
スタートする意識満々!
初LINE登録の子と、
最初はぎこちない状態でしたが、
別のクラスメイトに声掛けされ、
その子がLINE登録
第2号になりました!
会話ができるようになって日が浅く、
3人以上の子との会話のラリーは、
まだ苦手みたいでしたが、
その後も
順調に2人との友情を深めて、
先日はグループ5人で初カラオケ。
娘も立派に歌声を
披露しました♪♪
このように、
11年半苦しんだ場面緘黙を
わずか半年で完全に克服した娘。
娘は中学を卒業して
まだ3ヶ月程度ですが、
飛躍的な成長を遂げたことで、
自分に自信を
つけつつあります!
私も、これからも娘の成長を
見守っていきたいです。
あなたの子供が今、
挫けて足踏みしているなら…。
特性に振り回され、
自分に自信を持てていない毎日を
余儀なくされているとしたら…。
本人の強い決意、
親と周りのサポート、
後押しがあれば、
現状を変えていくことは
必ずできると信じています。
変わることで自信がつくこと。
これは私の娘の行動の変化で
実証されました。
次はあなたと
あなたのお子さんが
変わる番です!!
いかがだったでしょうか?
私の娘が真に笑顔の日々を
過ごせるようになったこと、
私と妻に真の笑顔が
得られたことは、
先生に恵まれた幸運もありますが、
まず何より、
子供との関わり方を
変えていくことが
できたこと。
子供の心理、発達特性を
しっかり理解し、
無理強いせず子供の変わりたい
決意を優先できた。
シンプルな話だったのです。
そして、
現状を変えるために
みなさんが非常に
子供想いなこと、
これも現状を変えるため必要な
要素かと思います。
私は、
子供を支えるにはもちろん、
あなた自身の
「心の安定」も同じくらい
大切だと思います。
なので、私達パパママが
万全のコンディションで
自分を信じて焦って
無理強いすることなく
サポートに徹すること!
この私の娘の経験を通じて
思ったことが1つあります。
それは、今のXや
公式LINEの発信だけでは、
子供と笑顔の日々を過ごしたい!
幸せな未来を叶えたい!
というあなたの本当の悩みに
寄り添うことはできない。
単に発信するだけでは、
真の意味で悩みに寄り添えない。
そこで私は、
子供との関わりを大きく変える
特別プロジェクトを
発表することに決めました!
正解もわからず、
ただガムシャラだった
毎日から抜け出すために…、
周りと比べて落ち込むことなく、
笑顔で子供を
外に送り出すために…、
一度きりの人生、
さらに毎日を充実させ、
楽しむために…、
あなたも行動してみませんか?
この記事をここまで
読んでくださったあなたは
とても強い意志をお持ちの方です。
必ずや子供との良い関係を
築いていけるようになります。
あと、あなたに必要なのは
一歩踏みだす勇気だけです!
詳しくはまた後ほど
お伝えしていきます。
どうぞお楽しみに!
では最後に恒例の
今日のワークを
していきましょう。
【今日のワーク】
Q.我が子と接する際に心がけたいことは?
①子供の目線、立場で考え、
接することを意識
②スパルタ式に鉄拳教育
③子供は放っておいても育つので
終日放置
とも公式LINEでお答えください。
↓ ↓ ↓
明日の配信では、
あなたが今感じている悩みを
すべて暴露いたします!
ではまた明日の配信で
お会いしましょう!
今日もありがとう
ございました!
とも
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